ZEALTALK

#05

日本各地を飛び回り、
奥深き水中撮影の世界へ

齋藤 貴之さん

部署:クルーズ事業部

さまざまな社歴を持つジール社員の中でも、ひときわ異彩を放っているのがクルーズ事業部 撮影課課長・齋藤さん。生まれ故郷の群馬県から渋谷の専門学校へ、沖縄に移り住んだ後、さらに同県の座間味へ。日本国内を移動する度、スタジオのカメラマン、民宿運営兼ダイビングインストラクター、水中撮影……と、経験は増えていきました。
「水中撮影といえばジール」と業界内で評判になるほど、社内でも大きな存在である撮影事業課は、実はたった2人で成り立っています。同課課長として切り盛りする齋藤さんに、これまでの生涯を振り返っていただきながら、未来の同僚へ熱いメッセージを語っていただきました。

―子供の頃は、どんなことにはまっていましたか?
小学校低学年の頃は、兄や幼馴染と一緒にリトルリーグで野球をやっていました。高学年の頃は、漫画『SLAM DUNK』(井上雄彦/集英社)の影響でバスケットに取り組んでいました。それからソフトテニス部にも入って……。そこから進学を意識して、高2の夏に写真部に入ったんです。学校に写真部があることは、実は先生に聞くまで知らなかったくらいでした。
当初「カメラマンになりたい」と希望を話したとき、両親には反対されました。やはり、普通の企業に入ってほしかったみたいですね。それをどうにか説得し、学校の先生に相談したところ、「うちの学校に写真部がある」と紹介してくれたんです。ちょうど、家にも親の持っていたフィルムの一眼レフカメラがあったんですね。親や先輩に使い方を一から教わりながら、近所の公園で被写体を探したりしたのが、撮影の始まりです。
―最終学歴はカメラ関係を専攻されたのでしょうか?
専門学校か大学か悩んだのですが、当時は4年制の大学で写真関係のところはあまりなかったんです。専門学校の中で、渋谷にある「日本写真芸術専門学校」というところを選びました。写真家の秋山庄太郎先生が校長を務めていて、自分の中でピンときたんです。その頃は、デジタルではなくすべてモノクロのフィルムで、みっちり2年間学びましたね。
当時のカリキュラムでは、芸術学科に入って、1年間は写真の基礎技術を学び、2年目に学科ごとに分かれて専門分野を学ぶ仕組みでした。実は初めは、報道写真が撮りたいと思い、1年生の時には報道課に行くつもりでした。しかし、折しもアメリカで同時多発テロが起こり……。周囲の同級生とも話をする中で、2年生に進んだとき、写真芸術科に移動したんです。現実的に、報道写真より商業写真の方がいいだろうという想いもありました。今でも、実は海外で報道写真を撮りたいという想いはあるんですけどね。
クラスは約30人で、男女も半々。同じように写真や撮影に興味がある熱い仲間が集まったので、大いに刺激をもらいました。学校の卒業時には、各自テーマを決めて卒業制作の写真を撮るのですが、ゼミの先生から、君は波や水を撮ったらどうかと提案されたんです。いろんな海の波を撮って、今思えばあれも水辺との関わりの1つでした。
昔は、学校を出ても、なかなかカメラマンとしての就職が難しい時代でした。アルバイトをしていたとき、写真プロダクションに入った学校の同期に声をかけられ、ファッションや広告を扱っている写真事務所に入ったんです。6割くらいは物撮りの事務所だったですね。事務所の全員カメラマンという環境で、手取り足取り教えてもらえるなんてことはありません。アシスタントとして、現場で学ばなければいけませんでした。その頃はパワハラなどの概念もなかったですから、𠮟責時に手も飛んでくるし、食事も誰より遅く食べ始め、誰より早く食べ終わらなくてはならず……。もちろん今の後輩たちには、絶対にしません(笑)!
そんな環境下で、24歳の夏から、ダイビングを始めたんです。思えば専門学校時代、一度ダイビングショップの方が来ていたなと思い出しまして。同じ24歳のとき、ダイビングのライセンスを取得しました。
25歳で退社を考えたタイミングで、リーマンショックが起こりました。今後どうしよう?と、個人としても事務所としても思う中で、面談で水中撮影に興味があることを話したんです。すると「応援するからやってみなよ」と、後押ししていただいて。円満に退社することができました。
まずは沖縄に行ってみようと思い、そのための費用を稼ぐため、故郷の群馬に戻りました。居酒屋で調理のバイトをしながら、目標額をクリアできました。沖縄でルームシェアできる物件のオーナーさんとも出会い、住むところも決まり……。27歳になる前に、沖縄本島に引っ越しました。その1週間後、念願だった、撮影のアシスタントをしないかという話が持ち上がり……。縁ってすごいですね。
それから4年、沖縄本島を拠点にカメラマンやアシスタント・撮影コーディネーターでのアシスタントへて、座間味島へ移住。
当時は民宿とダイビングショップを兼ねていた、「やどかり」というお店で働きました。 那覇で知り合った水中カメラマンの先輩に水中撮影をするならダイビングをもっとやって海の事を知った方がいいと言われ直ぐに移住を決断。
都心から約700名の島へ島流し状態の覚悟。
3年間と言う約束で入社しました。
お客様相手に、「ブリーフィング」という、ダイビングの説明や指導もしましたね。繁忙期には、限界ギリギリの回数まで海に潜ったりしました。そんなこんなで、水中撮影の機会にも恵まれたのですが。
「やどかり」にいる間に、ダイビングの仲間の知り合いで、前撮影事業部部長の加藤さんと知り合って、平野さんにも紹介してもらって。今思えばあの出会いが面接でしたね。加藤さんとは、もう一人の知り合いも含め、いまだに飲みに出かけるなど、仲良くさせていただいています。
―ジール入社後は、すぐに水中撮影部だったのですか?
いいえ、入社後2年間は、運航事業部でした。当時の水中撮影部は、人数が3人いて足りていたんですよね。運航事業部で操船したり、クルーズのガイドをしたり。入社して半年間は船の操船もできなかったですね……。ですが、その経験があるから、会社でどんなサービスを行っているか、よくわかるんです。クライアントに「弊社ではこんな事業を行っています」とスムーズに説明もできますし、今の水中撮影事業課の仕事に生きている部分もたくさんあります。入社してくる人みんなに経験してほしいくらいです(笑)。
水中撮影部への配属が決まったのは、2020年の1月からです。配属一カ月前に、突然「来月から水中事業部へ」と言われ、けっこう急でした。撮影部を管理するようになったのは、入社7年目からです。撮影も日々進化しているので、技術面で周りの情報網を得るなど、アップデートするよう心がけています。
―ジールの水中撮影事業部までにつながるまで、けっこうな道のりでしたね!
社内は中途採用社員が多く、皆さまざまな職歴を持つ仲間が集まっているので、そこも楽しいです!

ヘリコプターでの撮影実績も積み、

海外の撮影にもっと携わりたい!

―最近の仕事で、特に印象に残っていることはありますか?
映画『沈黙の艦隊』に弊社も撮影協力させていただいたのですが、その時に生の潜水艦の上に乗ることがうれしかったですね。
海上自衛隊員でも、潜水艦の船員になれるのは一部の人たちだけなんですよ。滅多にない機会なので、皆で「本物だ!」って感動して触ったりしていました(笑)。
―この先、仕事での目標や課題はありますか?
ハリウッド映画など、海外での撮影にもっと携わりたいと思っています。やはり海外の作品は、日本と予算感が異なると実感します。ただ、最近はインバウンドの需要が拡大したこともあり、海外での作品に関わる機会も次第に増えてきました。一例だと、フランス&シンガポール&日本の合作映画や、アメリカの配信ドラマ、イギリスの映画などに携わっています。
最近では、ヘリコプターでの撮影の機会も増えてきました。
―水中だけではなく、ヘリコプター撮影にまで広がっているんですね!?
『国際ファッション専門職大学』のCM撮影では、ヘリコプターを借りてきて、ピンク色にラッピング(装飾)したりしました。今後は、水中と空撮を組み合わせて撮影を行う機会もあるかもしれませんね。
船や空撮での撮影は特殊で、なかなか他社も手が出せないジャンルなんです。水辺での撮影といえばジールと、皆様に思っていただけたらうれしいですね。弊社は他の船会社とも連携を取っており、海や船、水辺まわりの自由はききます。撮影しやすい環境は整っています。
―どんな方にジョインしてほしいと思いますか?
ジールでは、他では体験できないことができ、1つのステップがまた次の機会につながっていきます。夢や願望を沢山持っている人に、ぜひ入社していただきたいですね!
「仕事は縁が大事だと思います」と、熱く語ってくださった齋藤さん。実際に、齋藤さんの人生の岐路はすべて、誰かの縁をきっかけに、切り拓かれていました。確かな撮影技術や撮影コーディネート力はもちろんですが、人当たりの良い語り口の裏側に、クライアントの要望に応えようとする熱きプロフェッショナル魂を感じました。ジールの撮影協力をもってして、未来でハリウッド大作が誕生する日も近いかもしれません。
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